こんばんはおるたな(@aratakid7)です。
アジア大好き人間、ご飯美味しくて暖かいところ、基本的に大好き人間。
今回は、Twitterのキャンペーンに何故か当選、それがきっかけで台北から数時間、花蓮へ旅行に行ってきました。
今回は週末台湾弾丸旅行、「花蓮」の旅で一番こころに重く響いた場所、松園別館をご紹介します。
私たちは、グルメや絶景、お土産など、あくまでも商業的な観光だけの情報だけを調べることはたやすい。
しかし、もう少しちょっと違った目線というか、その土地にまつわる歴史や背景も少し感じ取ってから旅行をさせてもらうことが、たとえ複雑な過去のある場所でも、背景や文化、現地の人々の想いを、現代の自分への応援のように感じることができると私は思います。
なぜかわからないけど、自分は今ここに居る。
きっとよくわからないけど、種がないところに芽がでないように、何か自分にとって必要だからこそこうなったんだろうな。
ちょっと私の浅はかな知識で申し訳ないのですが、普段深謀遠慮から離れ、気の向くままに生きる楽天家の私でも、ここだけはぜひ皆さんに行って頂きたいなので、紹介させていただきます。
Contents
花蓮観光・松園別館。少し遠くにいて、私達にとても近い、優しい人たちへ
花蓮県は台湾東部に位置し、面積は同国の県内で最大ですが、山岳エリアがほとんどしめています。
女子旅や弾丸旅でも大人気の台湾ですが、ここにもやはり過去の歴史がたくさん詰め込まれています。
自分は直接的に関わることが無くても、先祖を辿れば必ず亡くなった人がいるように、無意識のすごくちかいところに自分の知らない接点があります。
花蓮旅行で観光に訪れて欲しい松園別館
松園別館は1943年に、当時の日本軍軍事における最高司令部として建設されました。
花蓮の港を美崙山という高台から一望できる立地の上に、日本のコンクリートで建設されており、花蓮では最も完成度が高く、ドライバーのザオさん曰く、花蓮での日本最古として美しく残っているのがこの、松園別館だという。
まるでここは日本なのか・・・?と思うような100本以上の松に囲まれていて、初めて来た場所なのにとても親近感というか、親しい感覚になるから不思議。
そして近くの宜蘭市には、戦時中に特攻隊飛行地もあり、数多くの神風特攻隊の兵士達が台湾からも飛び立っていったとのこと。
そのため、ここの松園別館には、若き特攻隊員が出征前に過ごした招待所として、天皇より賜った「御神酒」を振る舞われていたとのことです。
松の木は沿岸に耐えれるのかとの心配も無用、今でもナンバリングされた松の木がたくさん。松の木というのは、どの土地にあっても根をはり、その土地に柔軟に適応し強く生きていく。
建物は重量感漂う深く吸い込まれそうな冷たいグレーの建物。
建物の周りには無数の松の木と、蔦が覆い、私がいった日も地元のミュージシャンの演奏がされていたり、歴史的書物や台湾土産のワークショップなどもありましたが、なかなか雰囲気も手伝って息をのむところ。
二階の部屋は綺麗な部屋が多く、当日は多くの若いカップルや地元の老夫婦がここにきており、ビデオを見ている人が多かった。
なかには若い台湾人の男性が音楽をききながら、2階の窓辺から、ひとり港をぼんやりとみているというのには少し驚きました。
自分たちの先祖である彼らもこの同じ景色をみたのだろう。
日の丸を掲げていたであろうここから、日の丸越しにある海の先を。
しかし、私よりも遙かに若かったであろう神風特攻隊の若き兵士達は、どのような気持ちで此処に立ったのか、計り知れない。
松園別館 小木屋
中にはおしゃれなワークショップを開催しているけども、・・・ゾクゾクというか張り詰めた、ピーンとした空気のにおいがする建物が。
写真をとることは躊躇われた場所、「小木屋」という木造建築もあります。
勇気を出して扉をあけたものの、足が動かず板の間をみるしかできない。
まるで良く今でも磨かれた剣道場のような神聖なエリアでした。
松園別館・防空壕
「小木屋」から少し戻ると、最初は扉だけしか今は無いかな?と思った『防空壕』と書いてある場所がありました。
私はあまり深く考えず、ぼーっと見ていたのですが、目の前に仲の良いご夫婦が現れ、旦那さんが奥さんを、手を引くのでは無く、笑顔で連れて行く。
中国語まったくわからずの私ですが、この奥様に「あなたは?」と言われたような気がしてつい細く冷たい階段を降りた。
扉の後ろを見るととっても小さい石の階段があるのです。
ここは今回の旅行ではもっとも写真を撮ることが出来なかった。
説明で読むと店員は20数名のような事が書いてあったのですが、密閉された空間で、とても20数名が入れるような広さには感じられなかった。
壁にはまばらだが、当時の若者達の写真があり、当時の特攻服なのか、マネキンもあり、ピースのポーズをしているが、少ない写真から入る情報や気持ちの多さに胸がいっぱいになってしまった。
まだまだ子どもたち。清々しい笑顔の若者が写真に写っていました。
自分は何を小さいことを考えてとらわれているのだろうか。
これからの自分をさらに前進させよう。
自分にとってここに来たのは偶然では無く必然だった。
普段は容易には入らないであろう場所に、スッと招かれることは多く、今回もそうだった気がする。
そしてまた数分後には反対側の出口から地面へ上ったら、ボトルに水を汲もうとしている通りすがりの、不思議そうな顔で私を見ている台湾人のおじさんがいた。
おじさんは、私の顔をみて驚き、「あんた!!大丈夫か!!」と大きな怒鳴り声のような声で言った。
不思議と涙があふれ、生きてこの土地に立つことの感動なのか、足が震えた。
顔の表情を変えずに大粒の涙を流す私におじさんも涙ぐみ、こういった。
「ありがとう。」
ありがとうを言うべきなのはこちらであって、中国語・台湾語が出来なくて心底悔しいと思った瞬間だった。
暫くおじさんは、黙ったまま何度も頷いていたが、深いため息をつき、こう言った。
「ありがとう、彼らのためにありがとう。」
なんだか夢のような現実の話。
あっという間の時間でした。
ようやく我に戻ってわたしもありがとうと笑顔でおじさんに手を振ったら、おじさんに
「また来るんだよ。」と言われた。
松園別館へのアクセス・開館時間
No. 65號, Songyuan Street, Hualien City, Hualien County, 台湾 970
970花蓮縣花蓮市松園街65號
公式HP Pinegarden
9~18:00開館
大体毎月の第2火曜日、詳しくはWEBサイトでご確認ください。
館内にはカフェや地元アーティスト達のグッズ販売もあり。カード不可。
入館料はたったの50元です。
おるたなは、KKdayの1日観光を予約して最後にここに来ました。
タクシーやバス、自転車でも、市内ならこれますよ。
花蓮松園別館 近くの将軍府にもぜひ。
ちょうど松園別館の向かい側(といっても離れてます)に、花蓮港陸軍兵事部部長の寄宿舎だったエリア「将軍府」もあります。
私が言ったときは日本人のおなじみのカラオケ十八番、「ふるさと」(千昌夫)が大音量で流れており、多くのカップルがインスタを更新。
カワイイインスタ映えになるかなぁ~という話をしながら動画を撮っている人達も多かったです。
当時の幹部たちのエリアとして入口付近はたしか賑やかですが、やはり一番奥の小屋がなぜかおちつく。
また川沿いには反対側にもある日本式のような瓦の建物を眺めるかのようなベンチもありました。
松園別館から見る景色も素敵でしたが、きっとあの場所から見るよりも、ここに居た優しい人達はこの川辺から遠くを見ることが多かったでしょう。
あの場所は特別な場所のようでしたし、ここなら規制無く景色を見れたはず。
スタッフのようなおじさんが話しかけてくれたのですが、ここはなかなかリノベまで追いついて居なそう。
確かに地震のあとなのかな、建物の中にはそのまま壊れた家具が無造作に置かれていて寂しく感じました。予算や人員もあると。
この100メートルくらいの長さにアーティストのワークショップ、B&Bとコワーキングスペースを入れて、日本人のフランチャイズではない定食屋さんやったり・・・
当時の日本と花蓮の人達で叶わなかったことをやったら、後生にも伝え方を変えながら、ずっと残るエリアなるだろうな。
興味を持つきっかけや内容が違っても、興味を持つ「台湾」はおなじ。
私が台湾に興味を持ったのは、実は幼稚園の頃。
水墨画で少し小銭を稼いでいた祖母の書斎に入り浸り、ひたすら絵を描きまくっていた。
祖母が乃木希典大将の話を多く語ったが、乙未戦争、劉永福、日清戦争、日本統治、明治メインだが大正、昭和時代についての話を毎日のようにしてくれたことがきっかけ。
当時の幼稚園に祖母に近い考えのおばあちゃん先生がおり、御遊戯会などでオズの魔法使いやシンデレラを演じるところ、「剣舞」のようなものもあり、親御さんだけでなく祖父母がたくさん見に来ては涙するということもあった。
中国語も台湾語もできないのに、とか、歴史の認識が甘いと他人を責める人は一部ですが、長期滞在したりしている人達と同じ理解量を他に求める事は悲しい。
大学入学時には意識が無かった祖母ですが、その影響もあって第二外国語は、女子に人気のフランス語ではなく、中国語とドイツ語で迷い、ドイツ語にしたのは少し乃木大将の影響があったからかも。
私は少しずつ気になった国や自分が行った旅行先などについて本を読む程度ですが、知ることを増やせるようにしています。
ちなみに私が数年前から台湾に訪れる度に読んでいる本もご紹介いたします。
まとめ
いかがでしたか?
花蓮観光・松園別館。少し遠くにいて、わたし達にとてもちかい、優しい人たちへ。
また、これから花蓮に行く人達にも届いたら良いなと思います。
追記。
私は会社を変えたりしても、販売戦略を練ったり、仕事に熱中するとよく、「サムライか。笑」と周囲に言われることも多く、両親も代々武家系列のせいか、ついこういった本を読んでしまうけど歴女にはカテゴライズされない人間。つまり偏っているから。
この松園別館・将軍府に来たとき、私が大手企業で藻掻いた頃や、勉強した頃のことなどを思い出したりしていました。
『物事を理屈で考えていたら詩を書けないよな』と、加山雄三が肩を落としてユーミンに言ったことも思い出した。
理屈だけでは動けない、というより、単細胞なので理屈かわからない、と言った方が近い。
直感で物事を捉えるので、この松園別館と将軍府に来たときに直感的に感じたことは、日本のラストサムライ・小野田寛郎さんのことだった。
フィリピンルバング島で終戦約30年後に発見され、世界に衝撃を走らせた、『生きていたラストサムライ』、小野田寛郎少尉。
憔悴しきった横井庄一伍長さんとは違い、出で立ちもさる事ながら鋭い眼光の鈍い光。
帰国後には奥様とブラジルへ移住。
晩年はこどもたちに向けて多くのボランティアをされておられました。
奇しくもこのブログの下書きを書き始めたのが、ご命日の1月16日だったこともあり、
これからを生きていく私たち、遠くもちかいみなさんへ、小野田さんの一言をご紹介します。
小野田さんの言葉
私は戦場での三十年間、生きる意味を真剣に考えた。
戦前人々は命を惜しむなと教えられ死を覚悟して生きた。戦後 日本人は何かを命がけでやることを否定してしまった。
覚悟をしないで生きられる時代は良い時代である。だが死を意識しないことで、日本人は生きることをおろそかにしてしまってはいないだろうか。
いつかはルバング島にも行ってみたい。
私や、私の先祖が昔、おもったことを感じるために。
おるたなでした。